チーム・マネジメント

有人宇宙の運用管制から、チームマネジメント、人間-機械システム、そしてヒューマンファクターズを考える

【惨事(Tragedy)】 ソユーズ1号事故

 1950年代から1970年代、覇権をかけて宇宙開発競争(Space Race)をアメリカ合衆国ソビエト連邦の間で繰り広げられました。第二次世界大戦において実戦配備したロケット技術をドイツ(ナチス)が保有していました。ドイツ敗戦後、ロケット技術を米国とソ連が引き継ぎました。ソ連はドイツ製ロケットV-2 (Vergeltungswaffe-2)を押収して、参考にしてロケットを開発しました。米国はV-2を開発したフォン・ブラウン(Wernher von Braun)を招き入れてロケット開発に従事させました。

 時代を遡(さかのぼ)りますが、ロケット技術の基礎を築いたのは、ロシアのコンスタンチン・ツォルコフスキー(Konstantin Tsiolkovskii)です。1898年には既に「ロケットによる宇宙探検」という書を著しています。大型ロケットは多段式が通常であり、積荷であるペイロード(Payload)を遠くへ運ぶためには、燃料を格納していた不要な構造を切り捨て、身軽になって更に加速していきます。増速量は噴射速度と質量比で表すことができ、ツィオルコフスキーの公式と呼ばれています(以前の記事)。

地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう。
宇宙旅行の父 ツィオルコフスキー

 宇宙開発競争において、1957年 ソ連 人類初の人工衛星 スプートニク(Sputnik)、1958年 米国 人工衛星 エクスプローラー(Explore)、1961年 ソ連 ユーリー・ガガーリン(Yurii Gagarin)による人類初の宇宙飛行、1962年 米国 ジョン・グレン(John Glenn)の宇宙飛行(1998年 スペースシャトルで再び宇宙へ、2016年死去)などと続きました。その後、ソ連 ソユーズ(Soyuz)計画、米国 ジェミニ(Gemini)・アポロ(Apollo)計画が進められていきます。

 栄光の歴史を見ると光の部分が強調されてしまいますが、実際には生命を危険に晒して危機一髪だった事件も多く、あまり語り伝えられない影の部分もあります。1967年2月には、地上試験におけるアポロ1号火災によって3名が亡くなっています(以前の記事)。詳細について当初明らかにされていませんでしたが、1967年4月にソユーズ1号(Soyuz 1)が打上げられましたが、地球帰還時にウラジーミル・コマロフ(Vladimir Komarov)が死亡する最初の宇宙飛行中における事故が起きています。

 現在もソユーズ宇宙船の改良型は国際宇宙ステーション(ISS: International Space Station)への人員輸送にて活用されています。開発当初はソ連による有人月飛行計画のためにソユーズ宇宙船は製作されました。今日までにソユーズ宇宙船は135機打上げられていますが、ソユーズ1号(1967年)及びソユーズ11号(1971年)の事故以降、46年間に渡って死亡事故は起きていません(2017年11月現在)。

 ソユーズ11号では、帰還時に気密が保持できなかったため、3名の宇宙飛行士全員が亡くなっています。人類初の船外活動(EVA:Extra-Vehicular Activity)を行ったアレクセイ・レオーノフ(Alexey Leonov)さんの回想記によると、着陸船の通気孔に対する自動開閉システムが誤作動することが判明しており、ソユーズ11号クルーへ自動開閉システムに頼らず手動で開閉するように念を押して説明していました。しかしながら、定められた手順には明記していませんでした。大気圏に入る前に通気孔が空いてしまい、船内の空気が希薄となり、着陸船の中でドブロボルスキイ(Dobrovolskiy)、バトサエフ(Patsayev)、ボルコフ(Volkov)は窒息死して発見されました。

 ソユーズ1号に戻って、名前の通りソユーズ宇宙船の有人飛行1回目となります。カガーリンが乗り込んだ宇宙船は、ヴォストーク(Vostok)と呼ばれる1人乗りの宇宙船です。ソユーズ宇宙船には3人までの宇宙飛行士が搭乗できるように設計されました。ソユーズ1号打上げに先立ち、ソユーズ宇宙船を無人で打上げて飛行試験が実施されていましたが、失敗していたことが明らかになっています。宇宙船の底部が焼けたため、着陸船内が減圧する異常が起きています。

 ソ連体制下で打上げ日は決まっており、打上げ延期を主張できる者は誰もいませんでした。改修が必要な宇宙船の欠陥が203箇所も存在しており、ソユーズ1号に対して全ての処置が済んでいたとは思えません。コマロフもソユーズ1号に搭乗すれば自らの命が危ないことは知っていた可能性があります。しかし、コマロフのバックアップはガガーリンであり、彼が飛ばなければガガーリンに危害が及ぶことを恐れていました。ガガーリンは、コマロフの代わりに自らが乗れば、打上げは延期されるかもしれないと期待を抱いて、打上げを妨害しようとしていました。

 1967年4月23日、コマロフを乗せたソユーズ1号は、バイコヌール(Baikonur)宇宙基地から打ち上げられました。やはり、ソユーズ1号は様々な不具合に遭遇しました。2つある太陽光パドルの1つが働かず、電力不足で誘導コンピュータが正常に稼働しませんでした。ソユーズ1号の姿勢を安定できず(宇宙では支えがないために致命的です)、コマロフは姿勢制御スラスタを手動で操作して機体の回転を止めようとしました。

 ミッションは中止され、地球へ帰還作業が開始されました。ソユーズの帰還カプセル(着陸船)は球状でなく釣鐘状の形をしており、底の面を下向きにしなければなりません。姿勢を十分調整することができず、大気圏に再突入が始まりました。電離層を通過する際のブラックアウト(Blackout)でコマロフとの交信が途絶えました。その後でも異常は続き、補助パラシュートは開きましたが、メインパラシュートは格納庫から引き出せませんでした。バックアップとして予備パラシュートが開くはずでしたが、コードが絡まって引き出せませんでした。

 落下速度を減速することもできずコマロフを乗せたカプセルは、隕石が落下するように、秒速25 mで地面に叩きつけられました。その衝撃で逆推進ロケットが爆破して燃え尽き、高さ2 mのカプセルは70 cmにつぶれた金属の塊に変わっていました。米国の国家安全保障局(NSA:National Security Agency)が、ソユーズ1号と地上管制間の無線交信を傍受していたことが明らかになっています。コマロフが再突入前に、コマロフの妻とも話ができました。話の最後のほうでは、彼は泣き崩れていたとのことです。

 世界の中で最も安全と評価され、安定的に宇宙飛行士を宇宙に送り届け、地球に帰還させてきたソユーズ宇宙船にも、そんな苦い経験を乗り越えてきました。1968年10月25日にソユーズ2号が無人で打ち上げられ、翌日にゲオルギ・ベレゴヴォイ(Georgy Beregovoy)が搭乗したソユーズ3号が打ち上げられました。ベレゴヴォイは、ソユーズ2号とドッキングはできませんでしたが1 mの距離までランデブー(Rendezvous)して、無事地球に帰還しました。

 

Our Soyuz MS-05 as seen from the Space Station

 

参考文献

  1. ガガーリン ----世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で
  2. アポロとソユーズ―米ソ宇宙飛行士が明かした開発レースの真実
  3. 宇宙への道 (1961年) (ポケット・ライブラリ)