チーム・マネジメント

有人宇宙の運用管制から、チームマネジメント、人間-機械システム、そしてヒューマンファクターズを考える

あの時に止めることができたのか? 完全なる人災 【JCO事故】

 人間が関与する大規模のシステムを見続けて、最も衝撃的な事故は福島第一原子力発電所事故です。教訓は将来に渡って引き継がれなければなりませんが、戦争や震災などの記憶と同様に薄れて忘れて、再び悲劇が生まれてしまいます。

 福島第一原子力発電所事故が起きる以前では、原子力発電は安全なものとして信じて疑いもしませんでした。私も技術者として、原子力発電のことをあまり理解せずに、安全神話だけを頼りに信じ込んでいました。核廃棄物の処理に関する廃棄問題は認識していましたが、恥ずかしいことに、国会で津波対策が不十分であることが議論されたことも知りませんでした。

 日本において原子力事故は最初ではありません。1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOにおいてウラン溶液を製造する作業中に臨界事故(連鎖的な核分裂反応が発生する事故)が発生しています。当時私は米国へ出張中で、現地のニュースでも臨界事故は大きく扱われていました。それと対照的に、日本では同僚が何も起きていないように仕事に追われており、真実が何であるのかわからなくなりました。情報規制があったのかはわかりませんが、大きく報道されていれば、2011年以前に安全神話を壊す機会だったのかもしれません。

 

 臨界反応は、連鎖的な核分裂反応が発生させることであり、原子力発電や核爆弾の基礎となるメカニズムです(以前の記事)。臨界反応を制御できれば(途中で止めることができれば)、発生した熱を発電に活用できます。しかし、暴走させてしまえば、原子力事故そして核爆弾となります。

 当時JCOは、高速増殖研究炉「常陽」で使用される核燃料の製造を請け負っており、製造作業中の10時35分頃に臨界状態となり、中性子線を建物の外にも放出し始めました。東海村では住民の退避が開始されました。当事者のJCOは事故対応をしておらず、更に核反応は暴走して核爆弾となるところでした。国から強制作業命令が出された後、冷却水を抜き、ホウ酸を投入して中性子線を吸収させて、連鎖反応を止めました。事故が収束したのは、臨界状態の開始から20時間後の10月1日の6時30分頃だったとの報告があります。

 この事故で、作業員3名中、2名が死亡して、1名が重症となりました。被曝者は667名にもなっています。国際原子力事象評価尺度(INES: International Nuclear Event Scale)でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)と識別されています。周辺住民も中性子線等の被曝をしており、事業所外へリスクを伴っているので、スリーマイル島原子力発電所事故と同じレベル5と識別されてもおかしくないです。レベル5と認知されれば福島第一事故は止められていたかもと思ってしまいます。福島第一はチェルノブイリと同じ最大レベル7(深刻な事故)に識別されています。

 

 臨界事故に陥った経緯の調査結果について、参考文献1に報告が記載されています。安全審査が骨抜きになったことが明らかにされています。原発再稼働に向けた安全審査において臨界事故の教訓は生きているのでしょうか。

 JCOが新たに核燃料の製造を請け負うことになりましたが、これまで使用していた転換試験棟は「誤操作等により臨界事故の発生するおそれのある核燃料施設」として許可を得ていませんでした。安全対策よりも納期(利益)を優先させて、臨界事故は起こり得ないと決めて、臨界事故を評価せず、臨界事故に対する適切な対策が講じないで製造が進められました。

 JCOが提出した申請書では、臨界事故は起こりえない、臨界事故の対策も講じる必要はない。日本の原発では、過酷事故(Severe Accident)は起こり得ない、過酷事故の対策は必要ないし講じる必要もない。まさに安全神話そのものです。

 

 臨界事故が発生しない施設と説明するため、確かに内部規制を設けて、臨界状態にならないように管理しようとしていました。その安全を確保するために必須な規制は、実務的に効率性が悪く、徐々に改悪されて、無効なものとして葬されてしまいました。

 その規制は、質量制約と形状制約から構成されていました。以前の記事でも解説しましたが、ウランなどの放射性物質は臨界量と呼ばれる一定以上の質量がなければ臨界状態になりません。そのため、一度に取り扱う量を制限すれば臨界事故は起こりえません(質量制約)。核反応によって生成された中性子放射性物質にぶつかり、連鎖的に核反応が広がっていき、臨界に達します。中性子が外部へ逃げる構造ならば臨界は生じません。したがって、ウランなどを混ぜる溶解塔を中性子が逃けやすい細長い形にしていました(形状制約)。

 質量制約を課すため、1回あたりに取り扱える作業量(バッチ)が完了するまで、次のバッチを入れる作業を行わない「一バッチ縛り」を設けていました。作業効率は低下するため、バッチを測れる専用の器具を使わず、ステンレスのしゃもじのようなものを用いるようになりました。形状制約のための溶解塔を使わずステンレスのバケツを用いて、手作業で撹拌していました。

 

 安全性を無視して、経済性を重視というより、目先の利益だけを見て、違法な工程変更がなされました。「改善提案」運動の一環して、一連の工程変更は、JCOの会議にて報告され、決定されていたことも議事録などから明らかになってきました。組織としての考え方が安全軽視となっていたことがわかります。

 国の安全審査においても臨界事故に対する懸念も表明されたようですが、外部の第三者による評価が不十分というよりは、「原子村」出身以外の安全審査官が少なかったため、不許可または審査の差し戻しはされませんでした。

 技術的な面も、マネジメントの面も、プロフェショナルな対応とは思えず、お粗末としか思えません。現場そして管理組織が共倒れとなり、高い安全性を保たなければならないシステムが崩壊しました。そして、市街で暴走した核施設が核爆弾と化すところでした。それは免れましたが、12年後、安全と思われていた我が国で再び核施設が暴走しました。

 

臨界!!

 

参考文献

  1. 臨界事故 隠されてきた深層―揺らぐ「国策」を問いなおす (岩波ブックレット)
  2. ヒューマン・エラー学の視点―想定外の罠から脱却するために
  3. 会議を制する心理学 (中公新書ラクレ)