チーム・マネジメント

チームマネジメント、人間-機械システム、そしてヒューマンファクターズを考える

取るものなのか、追求すべきものなのか【責任】

 新聞やニュース、日常において聞かないことがない言葉に「責任」があります。当たり前の言葉と考えていましたが、本質まで問い詰めるとよくわからなくなりました。広辞苑では、①人が引き受けてなすべき任務、②政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)とあります。

 責任に対応する英単語として"Responsibility"があります。意味的にも任務(duty)や誤った場合に避難される(blame)ことを示しており、Responsibilityの直訳として責任があてられたとも思えます。Responsibilityの語源から考察すると、Responseが応答、Abilityが能力を表しており、「応答できる能力」との意味になります。応答(Response)するのだから相手がいることになり、人間関係が存在することになります。責任があることを「相手から求められていることに応答する」と狭く解釈すれば、結果はどうであれ応答することが重要になります。事前に決めた手続きに則っていれば責任を問われない、まさに官僚的な対応です。

 それに対して、フランス語を語源に持つアカウンタビリティ"Accountability"(説明責任とも訳されますが、適切でないのでカタカナ表記とします)は、元来は資金提供者に対して事業内容や収支についての情報公開をする義務でした。現在では、資金提供者だけではなく従業員や地域社会など広い範囲の利害関係者(Stakeholder)を対象として、権限を行使するものが利害関係者に対して負う義務と解釈されます。対価として報酬を伴っており、自己の立場に応じて果たさなくてはならない義務です。責任と義務は、混乱して用いていますが、似ているようで異なる意味です。

 

 責任を「応答できる能力」と捉えることから始めて、社会にて責任というキーワードに求められていることは何でしょうか? 責任は能力ですから誰かに帰属するものです。その責任者が適切に応答できなかった場合、非難されて、更なる対応を求められます。不祥事などが起きた後の記者会見にて、責任者が頭が下げる映像が放映され、責任を取って辞任したことが報道されます。重要なことは問題を解決することのはずですが。

 階層型組織では上位に上がるほど権限(命令や判断を下すことができる権利)を持つことになります。執行役(Executive)であれば責任者と同一とみなされますが、権限と責任はまったく別で同じではありません。けれども、CEO(Chief Executive Officer)の日本語訳は最高経営責任者とされています(日本では経営責任だけ取れば良いのでしょうか?)。

 契約書上のように甲と乙の関係だけならば、応答できなかった場合には相応の損害賠償を行なうことで済むはずです。その責任が利害関係者だけではなく、第三者を含めた社会に対しても及ぶとなると複雑になってきます。公的な立場(大臣、議員、公務員など)であれば、公共に対しての責任を持つことになります。したがって責任を持つとは、任さられた責務をやりとげること、約束を守ること、信じられることになります。

 

 責任ある行動とは、他人の言いなり、状況や環境のせいにせず、自ら応答する行動であるとも言えます。応答しないことも自ら選択できるとすれば、意識的な選択の結果であるとも見なせます。主体的に選択して行動することを自由とすれば、自由に伴って責任が生じるとも言えます。理想的な自由主義(Liberalism)に従えば、個人が自らの意思で行動することができ、自らから決定したことなので自ら責任を持つことになります。

 そのような自由主義的な考えを基礎とすれば、何か問題が発生すると「それに対して適切に応答しなかったのは誰だ」と責任の所在を追求するようになります。不祥事において、問題解決よりも、犯人探しのように責任者探しとなり、「私はやっていない」など責任の擦り付け合いとなります。理想的な自由人ならばともかく、実社会において自らの行動すべてを自由意思で決めていないと思われます。何もしなかったことで過失責任が問われることもありますが、何もしないことを決断していたわけではないでしょう。ただし、法治国家として過失の罪を免れることはできません。

 逆説的に、自由主義が社会に浸透して、人々は何かあったときに個人の責任を追及せずにいられない存在になった。とすれば、当事者ではないのに、メディアにおける不祥事報道の過熱ぶりを理解できるかもしれません。

 

 責任の取り方として、責任を取って辞める(引責辞任)がよく聞きます。高収入や名声を伴った立場だから、責務をやりとげられなかった代償として、職を退くことです。古来では責を問われたならば、武士は切腹を命じられました。江戸時代まで切腹は「武士が罪をつぐない、過を詫び、恥を免れ、友を救い、自己の誠実を証明する行為」と認識されていました。日本ではその切腹が脈々と受け継がれ、引責辞任、自殺に追いやられる事件につながっていると思います。

 米国は訴訟社会であるため、責任を取るといった場合は「訴訟の対象になることも覚悟している」ということになります。したがって、契約書上も責任が免責となる条件などが細々と記載されてきます。その他の責任の取り方として、隣国である韓国の情勢や歴史を垣間見ると、権力を失権して刑事罰を問うような糾弾がなされます。

 

 責任の所在を問い詰める場合、大きな組織ならば関与した人も多いために曖昧になってきます。それでは、国の責任が問われるとしたらどうでしょうか? 例えば、福島第一原子力発電所の事故では、国の責任も問われています。国会において、地震による津波が押し寄せた場合、当時の防波堤では防げないことが指摘されています。その危険性が認識されていながら、国は東京電力に対策を取らせていませんでした。裁判で争われていますが、国の責任が認められれば賠償がなされます。

 日本国という機関ですが、責任者は具体的に誰になるのでしょうか? 内閣総理大臣国会議員から選出され、国会の議論を受けて津波対策を取らせなかったのは国会議員であったとします。民主主義ですから、国会議員は選挙を通じて国民によって選ばれた我々の代表者です。我々の主義・主張に基づいて(例えば経済優先)、国会議員そして政府が対応をしなかった。国が賠償するならば、国民から集めた税によって補償金が支払われることになります。国の責任となれば、首相や大臣は辞任して責任を果たしたと言うでしょうし、官僚は法律や指示に従っただけと言うでしょう。結局として責任の所在は明らかになりません。日本的な「みんなの無責任」を招く結果になります。

 様々な問題は誰か1人の責任ということはないはずですが、責任者は誰だと犯人探しのようになっています。今回の考察を通じて、巡り巡っても個人を特定できないとすれば、問題を解決するほうに重点を置くべきと考えるようになりました。

 

 零戦

 

参考文献

  1. 「責任」はだれにあるのか (PHP新書)
  2. 自由という牢獄――責任・公共性・資本主義
  3. 切腹: 日本人の責任の取り方 (光文社知恵の森文庫)
  4. 「みんな」のバカ! 無責任になる構造 (光文社新書)